アロハシャツの歴史

ハワイへの日本人移民からはじまった

1848年、ハワイ王朝はハワイの発展を考え積極的に海外資本を受け入れようと、外国人に土地の所有を認めることにしました。
とりわけヨーロッパ系の投資家はサトウキビ栽培に投資し多くの農場を開発しましたが、農場が増えると当然そこで働く労働者が必要になりました。

そこでまず中国からの移民を受け入れることで労働力を確保しようとしましたが、定着率が悪く農場の稼働が上がらないことが大きな課題になりました。

そして、次なる移民として中国の隣、日本人に白羽の矢がたちました。

当時の日本は江戸末期から新政府明治への移行期の大転換期に時代でした。
ハワイへの移住を決めた日本人は新天地ハワイでの夢を抱いて海を渡ったと言われています。


当時、農園で働く労働者たちが着ていた作業着が「パラカ」と呼ばれる開襟シャツでした。サトウキビ農園に投資を始めたヨーロッパからの影響でパラカは、もともとヨーロッパの船員たちが着ていた上着がその起源といわれています。

青いチェック柄の木綿地で作られたそのシャツは、日本人にとってなじみの深い「紬つむぎ」」に風合いがよく似ており、多くの日本人移住者は自然とこのシャツを愛用していったと言われています。

そして、このパラカシャツが、現在のアロハシャツの原型になったといわれています。

ハワイの気候に合わせた着物つくり

ハワイの気候に合わせて着物が変化

ハワイへ移住した日本人移住者たちは、日本から持参した着物をとても大事に着まわしてきましたが、ハワイの気候では着物は暑すぎるという問題がありました。

なんとか着物を有効活用しようと子ども用のパラカ風シャツに仕立て直して子どもたちに着せていたといいます。

着物生地を解体し、パラカシャツに仕立て直したため、シャツの風合いや柄、色は当然着物であり、極東の日本から来たオリエンタルな柄シャツは現地人の間でも話題になったそうです。

そして、1900年代のはじめに、そうした着物地のシャツを見た現地の人々が、それを真似して市販の着物や浴衣の生地でシャツを作って着るようになったといいます。

アロハシャツがブームに

アロハシャツの歴史は着物から

1935年以降は景気の回復もあり、アメリカ本土の人々が西海岸からハワイに観光で訪れる数が増えていきました。

その当時はすでに日系人だけでなく、現地ハワイアンたちの間でも親しまれるようになっていたアロハシャツですが、米国本土からの観光客たちは、ハワイを訪れた記念として買い求め、本土へ持ち帰るようになったそうです。

時間はかかりつつも徐々にハワイ観光の思い出のお土産として、着物のシャツはハワイ名物として徐々に広まっていきました。

当時の新聞には、アロハシャツを扱う店の広告が年々増え、ハワイを訪れたハリウッド俳優たちが誇らしげにアロハシャツを着ている写真などを見ることができます。

こうしたアロハシャツ人気を支えていたのが、主に日系の人々が営む街の仕立屋たちでした。

アロハシャツの最盛期

アロハシャツ・ブームの絶頂期は、第2次世界大戦後のおよそ15年間だといわれています。
というのも、当時、衣料素材として発明されたレーヨン(人造絹糸)腎臓が綿や絹に変わって登場したことにより、アロハシャツのデザインにも大きな変革をもたらしたのです。

当時、敗戦国である日本からは、着物の染色技術を使った繊細な柄が数多く海外へ輸出されています。
特に、戦災を逃れた京都の染色業は、戦後の繊維製品の輸出を支えていました。京都には、着物だけでなく布団地や風呂敷などを作る友禅業者が数多く存在し、これらの業者が高品質な製品を数多く作って輸出したことが、アロハシャツ発展の大きな要因になったのです。

アロハシャツの現在

シルク、レーヨンだけでなく、ポリエステルなど様々な素材で作られています。

デザインはハワイをモチーフにしたトロピカルな柄から起源となった着物のよう鮮やかな染色のものが多いです。
価格は3000円前後のお土産用の安価なものから1945年前後のヴィンテージもの、京友禅などの染色技術をもったメーカーが出す高級なオリジナル物など多岐にわたっています。

日本でも2005年から始まった「夏場の軽装による冷房の節約」クールビズ活動の中でアロハシャツの着用が推進されているなど、再び脚光を浴びています。